薬は、今後私が管理しょうと思い、気が進まなかったが、説明を、聞きに行った。
医者は不機嫌な顔のまま私の方は、見向きもせず、義母の手をシッカリ握って「◯イさん! 帰りたくなったら我慢しないで、帰りたいっていうんだよ!待ってるからねー」今生の別れのように、優しく言った。
義母は、あっさりとしたもので「ハイハイ! 先生も元気で居て下さいね」
そして、私に向かって医者が「良い老健施設が、今沢山出来てきて居ますから無理せずに相談してください」私は “むっ”とした。「私たちは、義母を施設に、入れることなく最後まで自宅で生活して行きたいと思っております」
『は〜?』というような顔をした。『何が悪いんだよ! なんか変なこと言った?』という思いで睨み返した。“ふん!” といった表情で、カルテを看護士に、渡した。 なんで、そんなに施設に入れたがるのか分からない。
義母は、その辺の老人とは違っていた。嫁、姑の関係も感じなかった。
世間では、92歳ともなれば、大人しく家に居て、周りに迷惑をかけないように、ひっそりとしているものなのだろうが、義母は、戦後、義父と共にお茶と陶器の店を切り盛りしてきた。従業員も6人ぐらい居たらしい。義父が亡くなって10年。パートのおばさんを使って店を営んでいた。勿論、出発のその日まで営業していた。シャターに「半年間休みます」の貼り紙。
それを見ても、誰も不思議に思わない。入院でもしたのかしら? ぐらいにしか思わないのである。何度かの入院の度に休んでいたから。何しろ、92歳ですから。
案の定、春に店を開けた時「あら〜 元気になられて良かった!無理しないでね!」と、客に声をかけられた。
そして、例の主治医ときたら、病院も薬局も跡形もなく消えていた。医者は、脳梗塞で呆気なく逝ってしまったという。78歳だったという医者。義母は、まだ若いくせに!医者の不養生だね!まったく!と吐き捨てるように言った。
「先生、待っているって、そっちの国で待っているってこと? 悪いけどまだ行きませんから、迎えになど来ないでくださいネ!」そう言いながら、手を合わせた。
義母は、いつ何処で死んでも良いと思っている。
人間至る所に青山あり。そう言うのである。あの、戦争を乗り越えて来た人は肝が座っている。
